三月となり、少しずつ暖かくなってきました。厳しい冬を耐えた分だけ春が待ち遠しくもあり、確かに春の息吹きも感じられる今日この頃です。朝晩の冷え込みも和らぎ、ぐっすり眠れるようになりました。まさに「春眠暁を覚えず」ついつい寝過ごしがちではないでしょうか。
そんな朝に思い出すのが冒頭の法然上人御作と伝えられる御歌です。意味するところは、「南無阿弥陀仏と十声お称えしてしばし眠るとしましょう。この眠りが永遠のものとなるかも知れませんから」となります。つまり、「この眠りが最期となり、もう二度とこの世で目を開けることが出来ないかも知れません。そう思って十遍お念仏して眠りましょう」ということです。
誰しもまさか自分のこととは思えないのですが、それが起こり得る現実であることを強烈に突きつけられたのが、一周忌を迎えた東日本大震災でした。テレビや新聞、あるいは巷で盛んに「無常」や「無情」が語られ、残された私たちは亡くなられた方の分まで、一日一日を大切に生きなければと誓ったはずです。しかし、なかなか一日一日を本当に大切には出来ていない、どうすれば大切に過ごすことになるのか分からない、というのが実際かと思います。
おりしも今年はオリンピックの年で、四年に一度の閏年です。2月29日が閏日でしたが、実は今年は閏秒もあります。7月1日の8時59分59秒と9時の間に1秒が足されます。つまり今年は例年より1日と1秒長いことになります。なかなか実感出来ませんが、確かに1日と1秒長いのです。東日本大震災を思えば、その1日1秒をムダには出来ませんよね。
私たちお念仏の教えを信じる者は、そんな1日あるいは1秒を最期かも知れないと覚悟し、お念仏を一念でも多く称えるべきです。この世での最期の瞬間かも知れないと思いを致し、後の世は極楽浄土に生れたい。阿弥陀さまのお迎えを頂き、極楽浄土で目を開けたいと願うべきです。その切なる思いを込めて一念一念を大切に称えるのが、念仏者の一日一日の過ごし方です。
季節の移ろいは早いものです。「一月は行く。二月は逃げる。三月は去る」とよく例えられるのは誰もが実感するところでしょう。それでは、四月は何と言えるでしょうか。無常・無情のこの世の中を思えば、それは「死ぬ」かも知れません。いつその時が訪れるか、誰にも分かりません。それならば「五月は極楽」といきたいものです。常に最期を意識しながら生きていくのは難しく、重く苦しい生き方かも知れません。しかしそれが念仏者の心がけであることを忘れず、怠惰で能天気な私は、せめて眠る時は法然上人の御歌を思い出して十念するのです。春眠暁を覚えずとも、南無阿弥陀仏を忘れずに。 合掌